青森裕貴の生きてきた軌跡
ここでは僕、青森裕貴の、現在に至るまでの出来事などをお話します。

そしてこれが、現在の本当の僕です。ただのおっさんですな。少しだけ年下には見えるけど。

青森裕貴の生きてきた軌跡・パート1
 
昭和47年7月26日、大阪府に僕は生まれた、らしいです。「らしい」というのは、当たり前のことですけど、僕には生まれたときの記憶はないからで、 物心ついたときに与えられていた情報を信じるしかないワケです。で、その物心ついた頃というのは『マジンガーZ』を始めとした、巨大ロボットブームが盛り上がっていた時期で、 当然のことながら、そういう『テレビ漫画』(当時はアニメとは言われていませんでした)を観、もちろん『テレビ映画』(特撮作品)も観て、育ちました。その頃から、 「あ、兜甲児とジャン・クーゴは同じ声だ」と、少しずつですけど、声優というものに興味を持ち始めてたんです。
 やがて『機動戦士ガンダム』が映画になって大ヒットしました。キャラクターのまねをして、セリフを覚えてよく友達と遊んでました。そういった小さな積み重ねが、少しずつ、 でも確実に今のこの僕の土台を作っていったんじゃないかな、と思ってます。
 中学生のとき、大きな出会いがありました。O君とA君。特にA君は声優という職業を、目指すきっかけを与えてくれた人で、彼がいなければ、 こういう人生は歩んでいないんじゃないかな、と思います。
 そして、彼らの影響もあってアニメを見ることがさらに増え、神谷明さんの事を強く意識することになっていきました。かっこいい主人公を演じるというだけでなく、 歌、司会、ラジオと幅広く活躍する神谷さんは、その頃から、そして今も、僕の心の師匠です。僕もいつか、神谷さんのようになりたいと思っています。

青森裕貴の生きてきた軌跡・パート2
 
高校を卒業するのと前後して(卒業式は終わってましたけど、籍はまだ高校にあったんです)、大阪で養成所に通い始めました。とは言っても、 声優養成所ではありません。放送タレントの養成所です。その養成所の名は『中央放送研究会』こと、『CHK』大阪校。その当時、大阪には声優の専門学校は皆無で、 選択肢といえば、大阪で『CHK』のような放送タレント養成所に入るか、東京に出て、専門学校に入るかの2つしかなかったんです。
 『CHK』もその多くの養成所と同じようにプロダクションに直結していました。そのプロダクションに入るには、もちろんオーディションがあり、 そのオーディションに合格すれば所属となります。そのオーディションも何度か受けたんですたけど、合格の一歩手前『次点』までは行ったんですが……。入所後、 1年と3ヶ月ぐらい経った頃だったでしょうか。その頃から考え始めてました。「このままここにいたら、レポーターとかに仕立てられてしまうんじゃないか?」と(笑)。 今はそうでもないですけど、その当時は「アニメがいい! 声優がしたい!」としか思ってなかったんです。そして情報を仕入れました。それが、大阪に声優養成所が出来る、 という旨のものでした。その声優養成所は2つ。ひとつは『CHK』京都校、もう一つは『原宿声優プロデュースオフィス』こと『HSP』、その大阪校だったんだんです。 そして僕は、『CHK』での勉強に1年8ヶ月ほどでピリオドを打ち、『HSP』に入りました。ちなみに『HSP』は、現在の『アミューズメントメディア総合学院』 の前身といえる存在でした。その『HSP』では、運命的とも言える出会いが待っていました。それは真実の師匠と出会いだったのです。

青森裕貴の生きてきた軌跡・パート3
 
真実の師匠、それは声優・山口健、その人です(尊敬の念をこめて、敢えて呼び捨てにさせていただきます。または『師匠』と呼ばせていただきます)。 もちろん最初は講師と研修生というのがお互いの立場だったんだですよね。ホント、僕は「その他大勢」ぐらいの認識しか、師匠にはなかったみたいです。しかも暫くの間、そうだったんです。 師匠の中では、僕に似た人が、僕を含めて三人いたらしいんですね。まあ、養成所内で定期的に行われるオーディションでも、審査員から「自己主張が足りないようです」 なんて評価されていましたしね。仕方なかったのかもしれないません。でも時間が経つにつれて、僕もだんだんと師匠に認識されていきました。他のみんなに比べて、 ほんの少しだけ力があった(養成所にいた期間が長かったってだけの話ですが)ので、初仕事をもらえる寸前まで行った事もありました。スタジオまでの地図をもらったり、って事も。 ですけど、結局、一歩、力足らずでダメでした。
 そんな事もあり、稽古を続けてきた僕らに、転機がやってきました。『HSP』の大阪校と名古屋校が閉鎖になることが決まったんです。それは'96年春のことです。 その時点で『HSP』は東京校、そして、『アミューズメントメディア総合学院(東京校)』が存在した、ということになります。で、大阪を追い出されるような形になった僕たちに、 『HSP』から掲示された選択肢は2つでした。一つは東京校への転入、もう一つは、『ウィットプロモーション』付属養成所『リトルウィット』への転入でした。でも、 僕はそのどちらも選びはしませんでした。なぜか? 結論から言いますと、師匠に拾ってもらったんですよ。『HSP』の当時から(今だから言っちゃいますけど)、師匠は、 音響制作のオフィスを作って、音響監督(キャスティングとかも含む)としても活動を始めてて、その事務所所属のタレントに近いような扱いで、『HSP』を辞めた後も、 引き続いて教えてもらえることになったんです。その事務所の名は『OYS planning』。そしてその夏、実力は大したことないのに、運とプラスアルファ(ほとんど運ですけど)で、初めて仕事をもらえました。 それが『史上最大のヒーローフェスティバル'96』だったんです。

青森裕の生きてきた軌跡・パート4
 で、ようやく、なんとかデビュー出来た訳なんですけど、その結果は散々でした。2本録りだったんですけど、2本目で一役降ろされてしまったんです。 下手だから? 声が良くなかったから? 理由は分からないけど、そんなの関係無くって、目の前にあるのは降ろされたという事実! それでも、現場はいい雰囲気でしたし、2本録った内の1本だけしか上演されずに終わったようで、更に、 その上演されたのが僕が降ろされなかった方でした。話はちょっと戻りますけど、 現場はいい雰囲気で楽しかったから、降ろされたのはもちろんショックだったんですけど、帰りの新幹線はニコニコしながら帰った記憶があります。
 けど、結局そのあと仕事をもらえたのが2003年だったことを考えると、実力ってヤツが無かったんでしょうね。
 なんだか話があっち行ったりこっち行ったりしているような気がしますね。まあ、それはさておき、その初仕事の後、暫くは師匠の下で勉強していたわけなんですけど、 師匠が多忙であるということから、大阪にあまり来れなくなってしまっていたので、臨時講師として、や乃えいじ氏に来ていただく事になりました。や乃さんと師匠のつながりは、 というと、実は松岡由貴さんの仲介だったりするんですよね。だからどうだと言われると困るんですけど(苦笑)、そのや乃さんには1年と少しの間お世話になりました。 プロダクションも紹介していただいてオーディションも受けさせていただいたのですけど、情けない事に落ちてしまったんですよ。
 で、そんなこんなで、たいした結果を残せなかった僕を含めたメンバーたちは、以前からの約束だった「2000年まで面倒見てやる」 という師匠の言葉を大きく上回る2002年春を以って、師匠の下から卒業する事になりました。そして、その後もフリーランスで活動する事になった、というわけです。
 そして、もうデビューから20年という年月が経ってしまいました。
 そのデビュー以降の僕の活動は、前ページの主な出演歴をご覧下さい。
 今後もいろんなことがあると思いますし、志半ばにしてこの世界から身を引く事だって、可能性としては充分有り得ます。でも、最後の最後まで、自分の出来る限りのことはやっていこうと思います。もし、このHPを見てくれている人や、 僕のことを応援してくれている人がいたら、もうしばらく厄介になりますね。
トップページに戻る